東C21

自治とアニメの話をします。

「学生自治の伝統」と「自治」は共存可能か(1)

 お久しぶりです。最近ネオリベとレスバして以降、表題の件について色々考えていました。少しずつまとまってきたので備忘録的に書き残しておこうと思います。

https://x.com/robocorpus636/status/1747288581125857627?s=20

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学生自治の伝統とは?

 ビラ汚損事件がきっかけになってこのことについて考え始めたのですが、まず最初にあった設問は「規則遵守を掲げる左翼」と「規則破りも憚らない左翼」は果たして同じ立場と見做せるのか、というものでした。

きっかけとなったビラ汚損事件

考えるきっかけとなったツイート

 ここでの「規則遵守」の指すところは東京大学学生自治会の最高意思決定機関である自治委員会で定められた規則を遵守するということです。そして「規則破り」についても、この規則を参照しています。

 先の設問に答えを出すために、「学生自治の伝統」ものについて考えようと思います。「学生自治の伝統」とは何ぞや?ということになるでしょうが、ここでは以下のように定義します。

学生という枠組みの中で、2~4年以上にわたり受け伝えられてきた、明文及び不文の規則・慣習、の特に精神的側面を指す。及びそれを受け伝えること。
 引継ぎなどの問題から基本的に学生は2~4年のスパンで総代わりします。この総代わりを受けても、残っている規則や慣習と特にその精神的な側面についてこう呼びます。「伝統」という言葉からも分かる通り、ものは代を変えるにつれ、その持つ表層・即物的な意味合いを変えていきます。それとは違う、もっと中核・本質的な何かを呼び表す言葉として伝統というものがあるのです。

規則遵守=学生自治の伝統を重んじるということ

 では、規則を守る態度はどういう態度かというと、まさにこの「学生自治の伝統」を重視する立場であると言えます。というのも、自治会が定めるほとんどの規則は、その立案はおろか制定にすら、時期的にかかわることすら「不可能」な学生が殆どです。「入学前に制定された規則に従う」ことになるのです。
 当然規則というものは時機に即して制定されます。時間が移れば、その意味合いも当然制定者・代の手からは離れそれ規則自体が無謬的に駆動していくということになります。規則を運用される自治会から規則に運用される自治会に変わりゆくわけです。
 つまるところ、それって果たして自治(On se governe=自らを治める)と言えるのか、と呼んでいいのか、と言いたいのです。(2へ続く……)

スピノザ哲学との類似性:行〈スルーク〉を歩む

なんかいい対談の新書ないかな~と漁っていたら発見しました。

内田樹先生の文章は受験の時に読んだだけだったのですが、いざ対談を読むとその教養の深さに感服致しました。。。

すらすら古典の知識が出てくるのには正直憧れますね。

道=行?

スピノザに関する講義を受けていたので、第3章に出てきた「行」という語に興味を惹かれました。

というのはスピノザ哲学の「道via」とすごく近しい認識だったんですよね。

この「行」はスルークといって字義は歩いていくこと、とのこと。さらに言えば、「目的地がわからないまま道を歩くということ」らしいです。これって正にスピノザの言う自分の道を不確かなものの中、手探りで一歩一歩進んでいく、その上に立つ「道via」に似てる・・そう感じました。

行は目的地=神の視点への到達を許しません、これってまさにスピノザの言う真理標識の不要と一致するわけですよ!

 

ちょっと色々考えたわけですがレポートを書く手は進まず、、今年も憂鬱な一月が始まったという訳であります。


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ティアムーン帝国物語 感想

ティアムーン帝国物語を冬休みを使って一気見しました。

第1弾キービジュアル

https://spice.eplus.jp/articles/317010

正直後半はしんどかったけど、まあギリ耐え。続編があるなら5mmぐらいは興味あります。(調べる気は起きない)

要素ごとにまとめて良かったシーンをネタバレ100%で紹介したいと思います。

1.ギロチン

一番すっきりするシーンです。物語前半でいわゆる悪役令嬢モノの典型となる危機回避ムーブをやりまくるわけですが、後半になると世界線もかなり変わっているため殆ど主人公の直観で危機回避していきます。この直観というものがほぼわがままムーブばかりなので、終盤になるとストレスが激増するのですが、こいつ死んでるんだなと思うことでこれを軽減することが出来ます。スッパリスッキリですね。

2.革命もどき

主人公の好きな子(アベル)の王国で革命が起こるのですが、まさかのただのクーデターでしかなかったというオチ。これだけ革命という語が広く流布しているということは、この世界には革命の先例があると思うのですが、共和国なんてものも出てこない。それに別の国のシオン王子が他国の情勢に正義を盾に内政干渉しまくる始末。主権国家でないとはいえ、いくら何でも政治が下手すぎます。騒動で何かを学んだ気配もゼロなので、こやつが王に就いた暁には、善政を敷くも他国に蹂躙される未来しか見えないです。

あと、恋愛パートも面白かったです。馬のシャンプーネタは何回擦るんだよって感じでした。
以上レポート書くのがだるかったので書きました。

20年代のタテカン問題

タテカン闘争という言葉自体が広く世間から注目を受けるようになったのは間違いなく京大の「景観問題」を理由にしたタテカン弾圧に始まっていると思います。

 

しかし、学生が自由にタテカンを立てられる大学は多くないです。(首都圏だと東大駒場と早稲田ぐらいしか思い当たりません)

 

京大だけが注目を浴びる理由は、やはり、それが石垣に立てられており、社会の目の当たるところにあったというものがあるかと思います。

多くの人にとって未だタテカン闘争の主人公は京大だと思います。(実際私もそう思っています。)

でもそこに隠れた多くの声なき大学の存在があることを忘れてはいけない。

 

東大駒場のタテカン闘争は10年代に始まり、20年代の頭にその一時的な終幕を見ました。

しかし、それは未だ終結しておらず、石垣タテカンの権利は当局に奪われたままなのです。当該を奪還しない限り、この闘争は終われないということでしょう。(石垣は井の頭線駒場東大前のホームから見える位置にあることで、訴求性の高さもあって、一部学生からの設置可能化への要望は大きいです)

 

そして近日新たに生えてきた都内私立大学のタテカン運動は、そのスピード感について目を瞠るものがあります。

運動としてのタテカンに注目が集まるところです。

東Cの21世紀の立て看文化

 近頃、どうやら立て看ブームなるものが起こっているらしいので、私もそのブームとやらに乗ろうと思い、はてぶを始めました。

 

 どれだけ続けるかもわからないし、別に立て看以外の話もじゃんじゃんしていくつもりです。

 

 とはいっても、何を書こうか、、と筆が進みません、、が、今日は駒場(東C)の立て看の話でもしようかと思います。

 

 駒場キャンパスはどこでも立て看が置けます。本当にどこでも。(参考:

立て看板規則 | 東京大学教養学部学生自治会

設置場所についての規定

 点字ブロック上及びその付近並びに通行の著しい妨げになる場所に設置されていないこと
 一号館前ロータリーの正門側及び正門前に設置されるものについては、別に広報局の規程で定める設置禁止区域に設置されていないこと。

 

 一時正門前が置けなくなる期間はありましたが、歴史的に駒場祭・入試期間以外はいつでもどこでも、学生が立て看を設置できてきていたんですね。(当然、これからもそうあり続けるべきですが。)

 

 また、学生による主体的な管理によって、これらは完全に学部の統轄外にあります。なんてすばらしい自治空間でしょう。

 

 これは是非是非守るべき!なんですが、、情況はそう甘くはありませんで、ノンポリ学生からは立て看はそこまで歓迎されていない、というのが実態です。(歓迎されていないとはいえ、排除を望む声も特段ありません。多くの関係者からは現状維持というのが学生総体としての意思と捉えられています。)

 

 ただ、権利として、これを行使しなければ、いずれ廃れ行くのが「権利」の運命です。この生きた権利を残すためにも今、立て看を立て続けることが必要なんです。

 

 というわけで、駒場生は立て看をじゃんじゃん立てていきましょう。アニメネタでもいいし、政治的な話でもいいし、イベント告知でもいいんです。

 

 この記事が、21世紀の駒場(東C)における20世紀の華々しいタテカン文化再興の一助になることを願って、締めとさせていただきます。

 

todaijichikai.org